賞金総額(2019年):3800万ポンド(約54億3000万円) シングルス優勝賞金:235万ポンド(約3億3600万円) 試合形式:ファイナルセットは12-12からタイブレーク; 最も長い歴史を持つテニストーナメ … テニスの「グランドスラム4大大会」はすべてのプロテニスプレイヤーにとって、一度は出場してみたい憧れの大舞台です。 そのひとつである「ウィンブルドン選手権大会」の他の大会では見られない特別な決まりやルールについてご紹介します。 National Singles Championship)の第1回大会がアメリカ・ロードアイランド州ニューポートで開催され、1887年には「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship) が始まった。これらのアメリカでの大会群は現在の全米オープンの原型である。1900年には男子国別対抗戦であるデビスカップがナショナルチームの間で始まった。, 試合形式としては、1人対1人で行うシングルスと2人対2人で行うダブルス、混合ダブルスがある。, 試合開始前のトスによって決定された一方のプレイヤーがサーバー、他方がレシーバーとなり、1ゲームごとに交替する。プレーヤーは奇数ゲーム終了ごとにコートを入れ替わる。サーバーはベースラインの外から相手コートのサービスエリアにバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールを2回バウンドする前に相手コートに打ち返す。次のようなときに失点(相手の得点)となる。, スコアは、0ポイント:ラブ (love)、1ポイント:フィフティーン (fifteen, 15)、2ポイント:サーティー (thirty, 30)、3ポイント:フォーティー (forty, 40) と数える。2ポイント差以上をつけて4ポイント以上を取ると1ゲームを獲得する。例としてカウントが40-30であれば、40の側のプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。両者とも3ポイント (40) の状態を「デュース」(deuce) と呼び、デュースの後1ポイントリードしている状態を「アドバンテージ」(advantage) と呼ぶ。アドバンテージを得ているプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。アドバンテージを得ているプレーヤーの相手側が1ポイントを取得すると再びデュースとなる。, 2ゲーム差以上をつけて6ゲーム以上を取得するとセットを得る。例としてゲームカウントが5-5となった場合は、6-5の後、7-5とすればそのセットを得る。ゲームカウントが6-6となった場合には、次のゲームはルールによってはタイブレーク (tiebreak) が行われる。タイブレークでは2ポイント以上の差をつけて7ポイント以上を獲得した方がゲームの取得者となり、このセットを得る。タイブレーク中のポイントの数え方は、zero、one、two、three、…となる(註:この時は0はzeroとなる)。タイブレークが行われたセットのスコアは、例としてセット取得者側から見る場合は7-6(6)のように表記し、この場合はタイブレークが8-6のスコアで終了したことを意味する(カッコ内の数字はタイブレークを取得しなかった方のポイント数である)。総セット数の過半数、例として5セットの内3セットを取得すれば勝利となる。, タイブレークは1965年にJames Henry Van Alenが試合時間短縮のために考案し、1971年にウィンブルドン選手権において初めて導入された。この時には最終セット以外のセットでゲームカウントが8-8となった後に行うというルールであり、1979年に同大会において最終セット以外のセットでゲームカウント6-6の後に行うというルールに変更された[2]。4大大会の全仏オープンでは最終セットでタイブレークを採用しておらず[3]、2ゲーム差が付くまでセットが続行される。かつてはオリンピック、デビスカップ、フェドカップでも同様のルールを採用していたが、現在ではすべてのセットでタイブレークを採用している[4][5]。2019年、全豪オープンとウィンブルドン選手権で最終セットのタイブレークが導入された。[6][7][8]。, 2005年秋以降の男子国際大会でのダブルスにおいて、ノーアドバンテージ、また1セットを5ゲーム先取方式とする(ゲームカウント4-4でタイブレークを行う)等のルール変更が提案されており、ダブルスプレイヤーを中心とした反対運動など論争が起こっている。, このシステムを試行した初の国際大会である2005年10月のAIGジャパンオープンテニスでは、日本の岩渕聡、鈴木貴男組が日本人ペアとして初のツアーダブルス優勝を果たしている。, 2006年のナスダック100オープンにおいて、条件つきで判定に異議を唱えられる「インスタントリプレイシステム」(チャレンジシステム)が初めて採用された。選手が審判の判定に疑問がある場合に「チャレンジ」を行うと、「ホークアイ」というコンピューターグラフィックスを用いた自動ライン判定システムのスロービデオが流れ、判定がやり直される。この手続きは主審がオーバールールを行うのと同様に、オンプレイの場合はラリー中のボールを止めて行う。明らかなエースおよびアウトやフォールトの場合はポイントが適用されるが、その他の場合はレットとなり、ポイントをやり直す。誤審が判明すればチャレンジする権利は失われないが、判定が覆らなかった場合、その選手はチャレンジ失敗となり、チャレンジする権利を1回失う。, 同システムは、4大大会では2006年の全米オープンにおいて初めて導入され、センターコートなど2会場で設置された。2007年には全豪オープンおよびウィンブルドン選手権でも導入された。日本では2008年に東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントにおいて、2010年にジャパン・オープン・テニス選手権においてそれぞれ初めて使用された。, 2011年のウィンブルドンにおいては、インスタントリプレイ (Electronic Review) に関して以下のルールが適用されている。, なお、チャレンジシステムはクレーコートの試合ではコートにボールの跡が残るため採用されない。, 公式の試合において、着用する服装はルールにより定められている。清潔でプレーにふさわしいと認められたテニスウェアを着用しなければならない他、トーナメントによっては開催要項に明記して、服装の形や色を規制する場合がある。有名なのはウィンブルドン選手権において白を基調としたウェアとシューズの着用が義務づけられている。これは、1884年の初代女子シングルス優勝者のモード・ワトソンが上下のウェアを白で統一していたことに由来する。, また、スポンサーや製造者のマークの大きさも決められており、アディダスの三本線はデザインとは認められず製造者マークと見なされ、2008年より大きさの制限が設けられている。 真夏のメルボルンで開催されるテニスの祭典、全豪オープンテニス。 世界中のテニスファンに注目されるグランドスラム (4大大会)の1つですね。 この記事では、全豪オープンを楽しむために、概要や特徴・歴史などを総合的にまとめています。 読んでいただければ、以下の情報がわかります。 テニスのトップクラスの大会といえばグランドスラム。 その一翼を担う全豪オープンテニスは注目度も非常に高いものがあります。世界中が注目する大会ですから、やはり賞金総額も多額。2001年からの金額がこちら↓ 2019年の賞金総額は6250万豪ドル。 日本円に換算すると、為替の変動がありますが、 1豪ドル=約77.9円〜79.5円(2019年1月25日〜2月20日の場合) 48億6千〜49億7千万円 Wow! 2018年と比べると約14%の増額です。 2001年から20年間で約4860万豪ドルの増額、増額率351%となってい … テニス選手の歴史 日本のテニス界には100年以上の伝統がある. 1891年、当時は「French Clay-Court Championships(フランス クレイコート選手権)」として始まりました。このトーナメントはフランス人男子のみが参加を許された国内トーナメントでした。 この時代に一躍スーパースターとなった人物がMax Decugisという選手で、1903年から1914年の間に8回もの … 【テニス史を巡る】 【戦前の歴史】 グランドスラムの歴史は古い。 最初のウィンブルドンは1877年に開催された。 最も新しい全豪でも1905年に始まった。 しかしこの頃のグランドスラムがどの程度の規模で、 どの程度の価値があったのかは想像がつかない。 ジュニアの大会では、原則としてメーカーのマークなどが、胸の位置以外にあるものは認められない。, テニスラケットも原則としてメーカー契約選手で無い限りメーカーのマークがされたガットを使用する事は出来ない。, 四大大会を1年間で全て優勝することを年間グランドスラム(複数年に跨っての達成はキャリア・グランドスラム(生涯グランドスラムとも))と呼ばれる。, これにオリンピックの金メダル獲得をも達成すると「ゴールデン・スラム」と呼ばれ(グランドスラムをオリンピックの開催年(オリンピアード)に達成し、かつオリンピックの金メダルを獲得することを年間ゴールデン・スラムという)、更なる難易度を要するものである。1988年に当時19歳のシュテフィ・グラフが達成し、この言葉が作られた。, グラフの後に達成した選手は、2008年に車いすテニス界において日本人プレーヤーの国枝慎吾が成し遂げている(全豪オープン、ジャパンオープン、全英オープン、全米オープン、パラリンピック)が、グラフが達成したのは年間グランドスラムで、国枝の達成したものはキャリア・ゴールデン・スラムである。, 諸説[16]あり、1878年(明治11年)にアメリカ人教師のリーランドが文部省の体操伝習所で紹介説が広く流布されているがこれも確たる証拠はないとされ、いまだ詳らかではない。, このあと、明治期の日本で調達が困難であったローンテニス用具を、安価なゴムボール等の代用品で賄った。これがやがて軟式テニスと呼ばれる様になり、体操伝習所の教師であった坪井玄道が普及に尽力し、伝習所の卒業生が教師となって各地の学校に赴任し伝えることにより[17]独自の発展を遂げ、今日のソフトテニスに至る。, 軟式テニスで育った熊谷一弥、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎ら多数の名選手がテニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らは、その当時においては独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で活躍し、1920年代前半から1930年代後半まで続いた日本テニス黄金時代を築き上げることとなる。, 1918年(大正7年)、熊谷一弥が全米選手権において、日本人テニス選手として史上初のベスト4進出を果たし、1920年(大正9年)には清水善造のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝(現在では準決勝に相当)に進出し、世界1位に君臨していたビル・チルデンに肉薄した。また、その年に開催された第7回オリンピックにおいて熊谷がシングルスで銀メダルを獲得し、ダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアが銀メダルを獲得し、オリンピックで初めての日本のメダルとなった。翌1921年、男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本チームの活躍は目覚ましく、準優勝に輝いている。, 日本テニス界の先駆者であった熊谷一弥と清水善造の後に続き、大正期から昭和期へと移行した1920年代には原田武一が日本を代表する選手として活躍した。原田はとりわけ、デビスカップで傑出した成績を挙げることとなる。特に1926年のデビスカップでは、日本テニス史に残る名勝負が繰り広げられた。日本は「アメリカン・ゾーン」決勝でキューバに5戦全勝で勝ち、「インターゾーン」の決勝でフランスと対戦する。当時のテニス界は、フランスの「四銃士」と呼ばれた4人の強豪選手たちが世界を席巻し始めていた。原田はインターゾーン決勝のフランス戦で、第2試合シングルスでルネ・ラコステを 6-4, 4-6, 6-3, 9-7 で破り、第5試合シングルスでもアンリ・コシェに 6-1, 6-3, 0-6, 6-4 で勝ち、この活躍で世界的に有名な選手となった。日本チームは2勝3敗でフランスに敗れたが、原田のシングルス2勝は大きな反響を呼んだ。1926年、原田武一は「全米テニスランキング」でビル・チルデン、マニュエル・アロンソに次ぐ第3位にランクされ、世界ランキングでも7位に躍進する。, 1930年代に入ると、佐藤次郎が登場する。佐藤は4大大会でシングルスでは通算5度もベスト4に進出し、ダブルスでは布井良助とペアで準優勝を経験し、混合ダブルスにおいても準優勝に輝くなど、日本の男子テニス選手として空前絶後の世界的な活躍を残し、当時の世界ランキング3位にまで登り詰めたが、1934年(昭和9年)4月に遠征中にマラッカ海峡で投身自殺をしてしまう。しかし、同年のウィンブルドン混合ダブルスで三木龍喜がドロシー・ラウンドとペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。, 佐藤亡き後は山岸二郎、中野文照が日本テニス界を代表する選手になる。特に山岸は1938年のデビス・カップ「アメリカン・ゾーン」決勝でオーストラリアと対戦した時、この年の世界ランキング3位だったジョン・ブロムウィッチを6-0, 3-6, 7-5, 6-4 で破り、1937年(昭和12年)に山岸は世界ランキング9位に入り、1938年(昭和13年)には8位にランクされた。同年にはアメリカのドン・バッジがテニス史上最初の「年間グランドスラム」を達成しており、山岸は彼らに続く強豪選手として高い評価を受けたのである。, しかし、1937年に勃発した日中戦争は泥沼の様相を呈し、国内の物不足も顕著になりボールも配給制となった。1939年には四大大会への海外遠征とデビス・カップへの選手派遣も中止となり、戦前の日本テニスの黄金時代は終わりをつげた。1941年に日本が太平洋戦争に突入すると、日本国内は戦時一色となり、日本テニス協会も1942年11月に解散を余儀なくされてしまい、翌年から3年間、戦争激化のため大会は中止せざるを得なかった。この影響は日本テニス界を確実に蝕み、今までのような高水準のレベルが維持できないようになってしまい、長期の低迷を迎えることとなる。, 終戦後には日本においてテニスをはじめとするスポーツも徐々に復興し、1951年(昭和26年)からデビスカップの国際舞台に復帰すると徐々にレベルを回復させるようなる。1955年(昭和30年)、全米選手権男子ダブルスにおいて宮城淳、加茂公成のペアが優勝を成し遂げる。, 1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である神和住純(父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だったスタン・スミスを2度破るなどの活躍を見せた。, 1995年(平成7年)には松岡修造がウィンブルドン選手権男子シングルスでベスト8を獲得した。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少なかった。, しかし、2008年(平成20年)に錦織圭が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たし、2014年(平成26年)には、全米オープンでアジア男子初の準優勝、同年末にはアジア男子初のATPワールドツアー・ファイナルに出場。初出場で2勝をあげ、準決勝まで進出するという快挙を達成、2015年には日本人及びアジア人最高位を更新する世界ランキング4位を記録、アジア選手初の生涯獲得賞金1,000万ドル (約12億円) を突破した。そして、全米オープンでは日本人で初めてのグランドスラムでの第4シードを獲得した。2016年にはリオデジャネイロオリンピックに男子シングルスの日本代表として出場。準決勝でイギリスの英雄アンディ・マリーにストレートで敗退するも3位決定戦で同大会ダブルス部門で金メダルを獲得したラファエル・ナダルにフルセットの末、勝利し銅メダルを獲得し、前述の熊谷一弥,柏尾誠一郎以来の96年ぶりのオリンピックテニス競技のメダリストに輝いた。, 女子では、1975年(昭和50年)のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、沢松和子とアン清村のペアが初優勝した。1980年代から90年代には井上悦子や1989年にプロ転向した伊達公子が活躍。伊達は1995年に日本人選手として最高の世界ランキングシングルス4位を記録。1997年には平木理化が全仏オープン混合ダブルスで優勝した。2004年2月、杉山愛が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たした。また、ダブルスとしては世界的な名手と知られ、2000年10月には日本人男女初となる世界ランキング1位を記録した(後に2003年にも1位に返り咲く)。そして2018年には、ハイチ出身の男性を父に持つ大坂なおみが全米オープンに優勝、さらに2019年の全豪オープンも制してアジア人として初めてシングルスの世界ランキング1位となり、2020年には再び全米オープンに優勝した。大坂は二重国籍であったが、22歳を前にして日本国籍を選択、選手登録も日本協会である。, 前述したようにソフトテニス(軟式テニス)はテニスが日本へ紹介された当時、テニス用具の国産化が難しく輸入品が高価であったため、ゴム製の手毬(玩具として輸入されていて容易に入手できた)を代用ボールとして使われたのが始まりで、ゴムボールを使用するソフトテニスは日本が発祥。アジアを中心に行われていたがプレイされる国や地域が増え、2007年の第13回世界選手権では40を超える国がエントリーした。ダブルスが主体であるというイメージがある。1994年以降はシングルスのルールが整備されている。ルールの一部はテニスのものと異なっている。日本語においては、ソフトテニスと区別して、テニスを硬式テニスと呼ぶこともある。, フィリップ・K.ヒッティ (著), 岩永 博 (翻訳) 『アラブの歴史 (上)』 講談社学術文庫、1982年 p687, 全豪オープンは10ポイント先取のタイブレーク。ウィンブルドン選手権はゲームカウントが12-12となった場合に7点先取のタイブレークとなる。, 「Wikipedia:表記ガイド:外来語」『ウィキペディア日本語版』 2011年10月8日 11:07 (UTC), 「テニスをブームではなく根付かせるために…18年目を迎えた9月23日「テニスの日」」|「国内ニュース」のニュース|THE TENNIS DAILY/テニスデイリー、閲覧2017年7月14日, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=テニス&oldid=82719239, 自分のコートでボールが1回バウンドし、もう1回バウンドしたとき(2回目のバウンドはコート外や設備などでも構わない), 自分のコートでボールが1回バウンドし、逆回転によってネットを越えて相手のコートに戻ったとき(この場合は特殊で、ボールが相手コート上にあってもネットタッチさえしなければ、2バウンドする前にオーバーネットして打ち返し、相手が取れなければそのポイントは自分のものとなる), タイブレークになった場合は、その時のチャレンジの残り回数に1回追加される。すなわち、そのセットでのチャレンジ失敗 (incorrect challenges) の限度が3回だったものが4回に増える。, 最終セットにおけるチャレンジ失敗の回数の限度は、12ゲームごとに3回にリセットされる。すなわち、, ゲームカウントが6-6となった場合は、回数はリセットされ、続く12ゲームの間は3回までとなる。, 線審がポイント終了時に視界をさえぎられ判定ができなかった場合、主審はインスタント・リプレイを要求してもよい。, インスタント・リプレイが何らかの理由で利用できない場合は、元の線審の判定あるいは主審のオーバールールが有効となる.