中原 中也(なかはら ちゅうや 1907年4月29日 - 1937年10月22日)は、日本の詩人、歌人、翻訳家。旧姓は柏村(かしむら)。, 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待され、小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が風邪により病死したことで文学に目覚めた[1]。中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。その一部は、結婚の翌年刊行した処女詩集『山羊の歌』、および、中也の死の翌年出版された第二詩集『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』や数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人小説家の翻訳もしている。日本大学予科、中央大学予科などを経て東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科仏語部修了。, 1907年(明治40年)4月29日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令(しもうのりょう)村(現在の山口市湯田温泉)の中原医院で生まれた。両親の柏村謙助・フク夫妻は結婚後6年あまり子供に恵まれず、中原家当主の政熊にも実子がいなかったため、長男の誕生をおおいに喜び、3日にわたって誕生祝いを行った。当時、父の謙助は軍医として旅順にいたが、手紙で「中也」と名づけるよう送ってきた。10月、生後6ヶ月で母・フクと祖母・スヱと関東州の旅順に渡る。中也を手元で育てたいという謙助の希望によるものだった。翌年の夏、謙助は山口に任ぜられ、一家は山口の中原家に戻った。翌年には広島に異動。, 1911年4月、広島女学校付属幼稚園に入学。謙助はよく中也を連れて釣りにでかけたが、自分たちと階層の違う近所の子供とは遊ばせなかったという。1912年9月、謙助は三等軍医正(少佐)に昇進、金沢に異動。翌年から中也は北陸女学校附属第一幼稚園に通う。, 1914年、謙助は朝鮮の竜山に栄転するが、学齢に達していた中也はフクとともに中原家に戻り、地元の下宇野令小学校に入学。成績優秀で「神童」と呼ばれた。1915年、謙助は上司に申し出て山口に転任、中原家と養子縁組、中也の苗字も「柏村」から「中原」に変わった。この年、弟の亜郎(つぐろう)が脳膜炎で死去。中也は後年『詩的履歴書』に、詩作をはじめたのは「亡くなった弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である」と記している。政熊が軽い中風に倒れたのをきっかけに、謙助は予備役編入を願い出て許可され、1917年に中原医院を継いだ。, 1918年、中也は山口師範附属小学校(現・山口大学教育学部附属山口小学校)に転校。ここでも成績優秀で、戦闘的でありながらひょうきんなところがありクラスの人気者だったという。中也の両親は教育熱心で、フクが予習復習を受け持ち、謙助は納屋に閉じ込めたり煙草の火を踵に押し当てるなど厳しい懲罰を与えた。湯田温泉の風紀がよくないのを心配して外で遊ぶのを禁じ、溺れるのを恐れて水泳もさせなかった。小学校6年のころから短歌を作り始め、フクとともに『婦人画報』に投稿、1920年(大正9年)2月号で次選になり掲載された。また『防長新聞』(戦後に存在した同名紙とは別の新聞)にも短歌を投稿、入選している。, 1920年4月、12番の成績で山口県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に入学。しかし読書にふけり、成績は80番にまで下降、教師が家に注意したので、小遣いがもらえなくなり、立ち読みをしたり、図書館を利用するようになった。2学期の成績は50番まで持ち直したが、2年生ではどん底の120番まで落ちる。このころ、中也は両親に隠れて、防長新聞の短歌会「末黒野の会」に出席していた。この会で知り合った吉田緒佐夢、宇佐川紅萩と歌集「末黒野(すぐろの)」を1922年5月ごろ刊行。中也は「温泉集」と題した28首を収めた。飲酒や喫煙を覚えた「不良少年」となっており、成績はさらに下降した。, 1923年、3年生の原級留め置き(落第)が決定。通知を受けた謙助は落胆し、数日間往診に出なかった。一方中也は級友を勉強部屋に集め万歳をして答案を破いた。祖母スヱが「この位のこと何です」と部屋を掃除したという。, 落第したことで中也が山口中学にいたくないという意思を示し、謙助も世間体が悪いということで転校させることになった。1923年4月、京都の立命館中学校3年に編入、中也は一人で下宿生活を送ることになった。秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』を読んで衝撃を受け、ダダイズムに傾倒、詩作を始める。3歳年上の女優・長谷川泰子と知り合い、翌年から同棲する。泰子はマキノ・プロダクションの大部屋女優として月給をもらっていたが、解雇されてからは中也の居候となってしまう。帰省した中也が痩せているのを案じた中原家は仕送りの額を増やしている。, 1924年、7月から11月まで京都に滞在した6歳年上の詩人、富永太郎と親交を結ぶ。富永太郎は連日中原の下宿を訪ねて語り合った。富永太郎が頼ってきたのは京都帝国大学文学部国文科在学中で立命館中学の非常勤講師を務めていた冨倉徳次郎だった。作文の時間、詩を書いてきた中也は冨倉の家に呼ばれるようになり、やがて大学生グループと展覧会を見に行ったり酒を飲んだりするようになる。中也は「ダダさん」の愛称で呼ばれた。12月初旬、富永太郎は東京に戻る。喀血したことを医師に診断してもらうためである。, 1925年、中学を4年で修了した[注釈 1]中也は、大学予科受験を理由に泰子と上京する。日本大学や早稲田大学を希望していたが、書類不足や遅刻で受験できず、予備校に通うという条件で仕送りを受け、東京住まいをはじめた。富永太郎の紹介で東京帝国大学文学部仏文科1年の 小林秀雄と知り合う。11月富永太郎が結核で死去。同じ頃泰子が中也のもとを去り、小林と同棲する。, 1926年、日本大学予科文科に入学するも1科目も試験を受けぬまま、9月退学。実家には知らせなかった。その後アテネ・フランセに通いフランス語を学ぶ。富永太郎や小林が参加していた同人雑誌『山繭』に「夭折した富永」を寄稿。東京で中原の書いたものが活字になったのはこれがはじめてである。翌年の10月、高橋新吉を訪問。また自分の詩集の刊行を考えはじめる。, 1928年、5月4日に前衛音楽グループ「スルヤ」の第二回発表演奏会で、諸井三郎が中原の「臨終」「朝の歌」に曲をつけて歌う。中也は前年知り合った河上徹太郎を通じて、詩を持ち込み曲をつけてくれと頼んでいた。3月に往診先で倒れた謙助は病床で印刷された歌詞を読んで涙を流したという。5月16日謙助が死去。中也は謙助が倒れてから月に1度見舞いに帰省していたが、母のフクは世間の目を気にして葬式には帰らせず、喪主である中也は病気であるということにして取り繕った。謙助の一周忌には、中也が中学2年の時に書いた「中原家累代之墓」を墓碑に刻んだ[注釈 2]。, この頃、宮沢賢治の詩集『春と修羅』に感じるところがあり、大岡昇平によると渋谷の夜店にあったゾッキ屋で1冊5銭で投げ売りされていた同書を複数買い込んで、大岡を含む知人に配ったという[3]。中也は、のちに賢治の最初の全集が刊行されたあとに「宮澤賢治全集」など賢治に言及した文章を3つ残している[3][4]。, 1929年4月、同人雑誌『白痴群』創刊。同人は中也の他に河上徹太郎、村井康男、内海誓一郎、阿部六郎、古谷綱武、安原喜弘、大岡昇平、富永次郎が参加。後に『山羊の歌』に収録される詩や翻訳を毎号発表。しかし中原が大岡、富永次郎と争ったり、原稿の集まりが悪くなったりしたことで、翌年4月に6号を出して廃刊となった。以後「雌伏」の時期となり、詩作が止まる。, 1930年、9月に中央大学予科に編入学。12月、小林と別れた泰子が築地小劇場の演出家山川幸世の子を出産。中也はその子に「茂樹」と名づける。種痘を勧めたり、あせもや小さな傷を気遣う手紙を書いたり、時には一日預かるなど可愛がった。, 1931年、中大予科に籍を置いたまま、東京外国語学校専修科仏語部(現・東京外国語大学)に入学。授業は午後5時から2時間だけの夜学だった。中也はフランスに留学するため、外務書記生の試験を受けようと考えていた。9月26日、4歳下の弟恰三(こうぞう)が肺結核で死去。父の死に目に会えなかった中也は恰三を見舞ったあと、母のフクに「もし恰ちゃんが死んだら、こんどは死に顔をぼくに見せてから焼場へつれてってください」と伝えて上京。フクは言われたとおり恰三が亡くなると中也を呼び戻し、死に顔を見せてから焼場へ連れていった。中也は泣かなかったが「恰三のことがかわいそうでならぬといったふう」だったという[5]。, 1932年、6月に初の詩集『山羊の歌』の出版を計画。1口4円で150口、600円集まれば200部印刷する予定だったが、申し込みは知人10名ほどで、7月にもう一度募集を出したが、申し込みはなかった。中也と親しい大岡らは払い込んでもどうせ飲んでしまうに決まっているとの判断だった。フクからも300円送ってもらったが、製本まで資金が足りず、刷り上った本文と紙型を安原喜弘が預かっている。このころノイローゼになり、強迫観念や幻聴があったが、年末から年明けの帰省で回復。, 1933年、3月に東京外語専修科を中程度の成績で卒業。外務書記生の道はあきらめ、近所の学生にフランス語を教えて小遣いを得ていた。『山羊の歌』を出版するべく、出版社に持ち込むがうまくいかなかった。12月、『ランボオ詩集〈学校時代の歌〉』の翻訳を三笠書房より刊行。この翻訳がはじめての商業出版である。本が売れたことで中也は小林秀雄とともにランボーの代表的訳者として名を残すことになった。無印税だったが、中也はこの訳詩集を中原本家はもちろん遠い係累にまで送った[6]。, 同じく12月、遠縁にあたる6歳下の上野孝子と結婚。中原思郎著『兄中原中也と祖先たち』59頁によると、「中也は、上野孝子との結婚において、最も素直な子であった。母のなすがままになっていた。孝子が気にいったからかもしれないが、母から金をせしめたとき以外は、すべてについて必ず一言あった中也が、結婚については全く従順な息子であった。中也の七不思議というものがあるとすれば、素直な結婚はその一つの不思議である。見合いは吉敷の親戚中村家で行われた。上野孝子は下殿中原家の親類筋にあたる。中原系族間の結婚である。」という。中原家地元の温泉旅館「西村屋」[7]で身内だけの結婚式と盛大な披露宴を行った[8][9]あと上京。, 1934年、10月に孝子が郷里で長男・文也(ふみや)を出産。11月『山羊の歌』が野々上慶一の文圃堂から出版されることが決まる。装丁は高村光太郎、四六倍判、貼函入り、背表紙は題、著者名が金箔押しという美装豪華本である。12月10日、3円50銭で市販された[10]。この後帰省、文也と対面した。翌年3月まで郷里に留まり、ランボーを翻訳するが、長門峡に遊んだ際吐血している。, 1935年、3月末単身上京。前年出版された『山羊の歌』は好評であり、詩壇とも交流、原稿依頼も来るようになった。また1月から小林秀雄が『文學界』の編集責任者となり、中也は4月以後毎号新作の詩を発表した[11]。しかし詩だけで家族3人が生活していけるだけの収入は得られず、フクは月100円以上の仕送りをしていた。中也は文也を可愛がっていたが、一緒になって遊ぶというより、文也が遊んでいるのを見守るという接し方だった。, 1936年、日本放送協会の初代理事だった親戚の中原岩三郎のあっせんで協会の文芸部長との面接に出かける[12]。定職についてほしいというのがフクの希望だったが中也にその気はなく、入社することはなかった。6月25日、山本文庫より『ランボオ詩抄』刊行。生涯初めて印税を受け取る[13]。11月、2歳の文也の容態が急変、入院させる。中也は3日間一睡もせず看病したが、文也は小児結核で死去。葬儀で中也は文也の遺体を抱いて離さず、フクがなんとかあきらめさせて棺に入れた。四十九日の間は毎日僧侶を呼んで読経してもらい、文也の位牌の前を離れなかった。12月に次男・愛雅(よしまさ)が生まれたが悲しみは癒えなかった。幻聴や幼児退行したような言動が出始めたため、孝子がフクに連絡。フクと思郎が上京した。, 1937年1月9日、フクは中也を千葉市千葉寺町の道修山にある中村古峡療養所に入院させた。ここで森田療法や作業療法を受け、2月15日帰宅。騙されて入院させられたと孝子に言って暴れたため、またフクが呼ばれた。文也を思い出させる東京を離れ鎌倉町扇ヶ谷に転居する。5月、『文學界』に「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」ではじまる『春日狂想』を発表。7月、小林秀雄、三好達治ら友人たちの間で第二詩集出版の話が持ち上がる[14]。しかし中也は心身を休めるため帰郷を考えていた。, 9月、左手中指の痛みを訴え痛風と診断されている。9月15日、野田書房より訳詩集『ランボオ詩集』が刊行され、売れ行きは上々だった。23日、『在りし日の歌』の原稿清書を終え、翌日小林秀雄に渡している。夏ごろから良くなかった体調がさらに悪化、10月4日に横浜の安原喜弘を訪ねた時は、頭痛や電線が2つに見える視力障害を訴えた。歩行困難もありステッキをついて歩いていた。5日、鎌倉駅前の広場で倒れ、翌日鎌倉養生院(清川病院)に入院[15]。脳腫瘍が疑われ、その後急性脳膜炎と診断された(今日では、結核性の脳膜炎とされている)。15日、フクと思郎が駆けつけたときは既に意識は混濁していた。明治大学で教えていた小林は1週間休講にして病室に詰めた。河上徹太郎は毎日東京から病院に通った。22日午前0時10分永眠。苦しむことなく安らかな死だった。通夜は22、23日と2日にわたって自宅で行われ、24日寿福寺で葬儀告別式が営まれた。葬儀からほぼ1ヶ月後、遺骨は『一つのメルヘン』で歌われた吉敷川近くの経塚墓地に葬られた[16]。, 中也の詩は、上京後は「朝の歌」に見られるようにランボー、ヴェルレーヌといった象徴派ふうの詩風だった[20]。その後宮沢賢治の詩集『春と修羅』に出会い、不思議な宇宙観と口語による響きに魅かれる[21]。1935年(昭和10年)、賢治の没後一周年に刊行された『宮沢賢治全集』[注釈 3]について『作品』1月号に掲載された推薦文では「僕は彼の詩集『春と修羅』を十年来愛読している」「此の我々の感性に近いもの、寧ろ民謡でさへある殉情詩が、此の殉情的な国で、今迄読まれなかったなぞといふことは不思議だ」と評価している[22]。, 生前の中也は『山羊の歌』の詩人として、小林秀雄、河上徹太郎らの友人から高く評価され、また室生犀星、草野心平、萩原朔太郎らも独特な歌の世界を貴重なものとして見ていた。没後は『文學界』『紀元』『四季』などがあいついで追悼号を企画、中也の評価が続いた[23]。戦後は、復員した大岡昇平の編集解説で『中原中也詩集』が創元社より1947年(昭和22年)刊行、大きな反響を呼んだ[24]。1949年(昭和24年)には『ランボオ詩集』、そして1951年(昭和26年)に『中原中也全集』全三巻が刊行。その後、中也の詩は各種文庫や詩歌全集に収録されるようになり、広汎な読者層を獲得した[25]。, 中也の性格について、中也の弟呉郎の解釈によれば、「農から出て立志した父の“荒い血”と封建の臣として淘汰された母方の“静かな血”の混血から成るもの」という[26]。, 中也は自分の名前は森鷗外につけてもらったと称していた。鴎外は父の謙助が軍医学校在籍時に校長を務めていた。しかし母のフクによれば、旅順の軍医大佐「中村六也(中村緑野)」からとったものだという[27]。, 中也の代表作「サーカス」は本人にとっても自信作であり、中也とはじめて会った人間は大抵朗読を聞かせられた。「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」のオノマトペを、仰向いて目をつぶり、口を突き出して、独特に唄った[28]。, 中也の遺族によれば、帰郷すると東京の交友関係を大げさに吹聴していたという。小林秀雄は三代続いた江戸っ子、青山二郎は青山と名の付く町全部の大地主、といった具合である。これは両親に仕送りを続けさせて東京に在住するためと大岡らに説明していた[29]。, 『白痴群』時代の服装は、五尺(151.5cm)に満たない体を黒いルパシカ、冬は黒い吊り鐘マントで覆い、頭には「お釜帽子」と呼ばれた黒いソフト帽をかぶっていた。のちに黒い背広に黒いベレー帽、冬は黒い外套に変わったが、黒ずくめの服装は中也のイメージとして定着した[30]。, 大岡昇平は1976年月刊『ポエム』創刊号誌上での正津勉との対談の中で、中原の道化はわざとしているような感じで、一種の抗議者の役目を自分に振り当てている。ふざけて面白がっているところが随分あり、人に毒づいているときは結構楽しそうだったと語っている。また、2人は喧嘩をする割には会う機会が多く、皆最初は中原をあがめていたが、「白痴群」をやめるころから重荷になり始めた。こじれると妙に勘繰るところがあり、ありもしない下心をさぐられますますこじれたとも語っている。大岡は「中原の中には、疑うべくもない魂の美しさとともに、何とも言えない邪悪なものがあった」と書いている[31]。, 嵐山光三郎が大岡昇平にきいたところによると、現在中也の肖像として広く知られている黒帽子の写真は、複写・レタッチを繰り返したため中也本人とかなり違うものになっているという。大岡曰く「皺が多いどこにでもいるオトッツアン顔だよ」とのこと[32]。, 22歳のとき、『白痴群』の同人の村井康男、阿部六郎と酒を飲んだ帰り、沿道の家の外灯を傘で叩き壊した。家の主人の町会議員は3人の後をつけ、交番につきだしたが、村井と阿部は教師だったため5日で釈放された。しかし身分がはっきりしない中也は15日間も留置された。警官への恐怖が後まで残ったという[33][34]。, 青山二郎は死別した夫人の弟にバー「ウィンゾア」を出店させていた。常連は小林秀雄、井伏鱒二、大岡昇平ら若い文人たちだったが、中也が毎日顔を出し、誰かれかまわず絡んだり喧嘩をふっかけるので、1年でつぶれてしまった[35]。, 坂口安吾は「ウィンゾア」で中也と知り合った。中也はお気に入りの女給が安吾と親しいのが気に入らず、いきなり殴りかかったが、大柄な安吾から少し離れたところから拳を振り回しているだけだったので、安吾は大笑いした[36][37]。, 大岡昇平は『白痴群』の同人会で酔った中也に殴られたことがあった[38]。他にも中村光夫は「お前を殺すぞ」と言われビール瓶で殴られたことがある[39]。, 吉田秀和は著書の中でレコードを購入した後に余った金で酒を飲もうとする中也を無理やり自宅へ連れて帰り、共に音楽に耳を傾けたエピソードを記している。, 太宰治は同人誌「青い花」を創刊するにあたり、檀一雄や中也を誘った。東中野の居酒屋で飲んでいると中也は「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」「お前は何の花が好きなんだい」と絡みだし、太宰が泣き出しそうな声で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「チエッ、だからおめえは」とこき下ろした[40]。「青い花」は1号で終わり、太宰は「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃないよ」と中也を拒絶するようになったが[41]、中也の死に対して太宰は「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と才能を惜しんでいる[42]。, 中也の死の翌年から『四季』誌上で行われた詩人への賞。発案者は長谷川泰子で、夫の中垣竹之助が援助したが、3回で終了した[43]。現在山口市が主催する「中原中也賞」とは別のものである。, 中也の詩のなかで、最初に活字になったものは『朝の歌』と『臨終』である。それらは諸井三郎により歌曲になり、1928年の第2回スルヤ演奏会で歌われたのだが、その際、機関誌『スルヤ』に歌詞として掲載されたのである。詩集どころか詩さえも発表していない、ゆえにまったくの無名といっていい詩人の作品に音楽がつくのは、きわめて珍しいケースであるといえる。, 諸井は、中也の生前、彼の詩『空しき秋』『妹よ』『春と赤ン坊』に曲をつけ、中でも『妹よ』はJOBKで放送された。また、『スルヤ』の同人であった内海誓一郎は、1930年に『帰郷』『失せし希望』に作曲している。, 中也の死後、石渡日出夫、清水脩、多田武彦らをはじめとして多くの作曲家が曲をよせている。クラシック系の歌曲、合唱曲が多いが、演歌やフォークソングも生まれている。とりわけ、友川かずきによる楽曲群(アルバム『俺の裡で鳴り止まない詩』以降も「わが喫煙」「頑是ない歌」など少なからぬ詩歌を取り上げている)が知られている。中也の友人であった作家の大岡昇平も、『夕照』『雪の宵』の2篇に作曲している。, 海援隊の思えば遠くへ来たもんだという曲は中也の「頑是ない歌」を盗用したと言われるほど一致点が多い。テレビ番組知ってるつもり? 中原 中也(なかはら ちゅうや 1907年 4月29日 - 1937年 10月22日)は、日本の詩人、歌人、翻訳家。 旧姓は柏村(かしむら)。. 演出 - 関友太郎(nhk山口放送局) 制作統括 - 中野信子(nhk山口放送局) 制作・著作 - nhk山口放送局; 関連番組. 中原中也29歳。 長男文也は、 生まれて約1年10カ月の可愛い盛りです。 訳詩集「ランボウ詩抄」を」刊行したり. 「月の光」は、石川浩司により曲を付けられ、たまのアルバム『そのろく』に収録される。, 最近では、たつの市出身の作曲家・薮田翔一が、中也の詩による歌曲を数多く作曲している。, 大岡昇平「宮澤賢治と中原中也」『校本宮澤賢治全集第十巻 月報』筑摩書房、1974年, 中也の生家の直ぐ側の温泉旅館。1906年創業。中原中也賞の選考は、毎年ここで行われていたが、2017年6月負債3億2千万円で破産。毎日新聞2017年6月9日, https://mainichi.jp/articles/20170609/k00/00e/020/283000c, 中原中也記念館・企画展示「中也の兄弟たち」(平成20年12月17日(水)〜平成21年4月19日(日) ), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=中原中也&oldid=82674661, 1月 - 弟の亜郎が病死。弟の死を歌ったのが最初の詩作だと、中也は後に書いている。, 11月 - 文也死去。子供の死にショックを受け、精神が不安定になる。次男愛雅(よしまさ)が生まれる。, 『中原中也全集』(増補版:全5巻別巻1、角川書店、1967~71年)…二十数年間にわたり重刷された。, 『新編 中原中也全集』(全5巻別巻1、角川書店、2000~04年)…最新の全集で、各巻が本文篇と解題篇の2分冊。, 中原フク述、村上護編 『私の上に降る雪は わが子中原中也を語る』(講談社文芸文庫), 長谷川泰子述、村上護編 『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』(講談社→角川ソフィア文庫). 秋、親戚の中原岩三郎の斡旋で放送局(現・NHK)入社の面接に臨んだが不調。11月10日、長男文也、小児結核で死去。悲しみの底で「文也の一生」「夏の夜の博覧会はかなしからずや」「冬の長門峡」を書く。15日、次男愛雅(よしまさ)出生。 Amazonで太田 治子, 太田 治子の中原中也詩集 2017年1月 (100分 de 名著)。アマゾンならポイント還元本が多数。太田 治子, 太田 治子作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また中原中也詩集 2017年1月 (100分 de 名著)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 立教大学経営学部(学部長:山口和範)の中原淳研究室は、5月31日、調査報告書“オンライン面接はどんな特徴をもち、何が可能で、何が課題なのか?「面接形態による比較」と「学生-採用担当者の比較」を通して”を公開しました。 あったのでしょうか。 中原中也(なかはら ちゅうや,1907-1937),旧姓柏村,昭和时期诗人、歌人、翻译家,被誉为“日本的兰波”。有350多篇诗作流传至今,其中一些诗作被选进日本的国语教科书,主要作品有诗集《山羊之歌》(1934)、《往昔之歌》(1938),译诗诗集《兰波诗选 (c) The Government of the Hong Kong SAR. 中; 大; 立命館あの日あの時. "女 中原中也の多忙なる人生 3" is episode no. 3 of the novel series "太中". 【中原中也の最新記事】 「第24回やまぐち朗読Cafe ~朗読と.. 中原中也の詩を方言にして読む @ 中原中.. 福田百合子名誉館長と中也の詩「無題」(『.. 山羊の日 @ 中原中也記念館; 記念講演会「中也と鉄道」 @ 「第25回.. 第25回中原中也賞贈呈式 @ 「第25回.. 太♂中♀3 中原中也は妊娠2 相変わらず、精力的です。 しみじみと、 人生を振り返るときが. Map reproduced with permission of the Director of Lands. 中原中也の東京を歩く -1- 初版2004年4月24日 二版2008年12月27日 永井龍男の高円寺に関する記述を追加 今週は「中原中也の世界を巡る」の第二回目として、東京の中原中也を歩いてみます。関東大震災から二年後の大正14年4 鉄道写真、そして旅の楽しさを十分にご紹介します。四季折々の美しい風景、そこを走るローカル線。鉄道写真家の中井精也が最高の一枚に仕上げていきます。地域の魅力もパッケージし、旅情たっぷりに … 中原中也已經註冊了 Facebook。加入 Facebook 來聯絡中原中也及更多你可能認識的朋友。Facebook 讓人們盡情分享,將這個世界變得更開闊、聯繫更緊密。 劇画家・曽根富美子は中也の一生を描いた作品 『含羞』(はじらひ)の中で、 「中原のうしろにその父親の影が見える。自分の子に全存在を賭け、全人生を失った父親が重なる」と描いています。 まるで、“ 天才のぬけがら ” 長年の不摂生で身体をボロボロに傷(いた)めていた中也は、文 It includes tags such as "文豪ストレイドッグス", "女体化" and more. 山口市は「第25回中原中也賞」の実施にあたり、詩集を募集しています。受賞者には、中原中也ブロンズ像と副賞100万円が贈呈されます。2019年12月8日締切り。 プレミアムトーク 中原中也と「朗読屋」(2017年1月18日 8:30 - 8:58、nhk bsプレミアム) 出演 - 荻上直子、中原豊(中原中也記念館館長)、田中秀喜 中原中也 生誕110年記念「中也が学んだ立命館中学 大正期の自由教育」展のお知らせ . 読みたいとは思いながらも途中で挫折してしまう、古今東西の“名著”を25分×4回=100分で読み解く『100分de名著』。偉大な先人の教えから、困難な時代を生き延びるヒントを探るこの番組は、NHKオンデマンドの「隠れたベストセラー」です。今回は、「中原中也詩集」です。 作品は、「新編中原中也全集」(角川書店)、「中原中也全詩歌集(上・下)」(講談社文芸文庫)を底本とし、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改めました。底本のルビから( )を省き、一部、新たなルビを加えたところもあります。また、原作が作られた時代の人権意識は現代と異なると� 懸賞に応募したり. 放送局(nhk)の入社面接を受けたり. !で「20代の後半に無我夢中で読み、かなりの影響を受けた」「中也の詩から『思えば遠くへ来たもんだ』というフレーズが浮かんだ」と語っている, 「汚れつちまつた悲しみに……」は、おおたか静流により曲が付けられ、NHKの『にほんごであそぼ』で歌われている。また歌手の桑田佳祐も曲にしている。GLAYの楽曲「黒く塗れ!」の歌詞にも、このワードが登場する[44]。他にも、GRANRODEOの楽曲「SUGAR」の曲間に中也に宛てた台詞があり、このワードが登場する。(GRANRODEOのボーカルであり声優でもある谷山紀章は後にアニメ「文豪ストレイドッグス」にて中原をモデルとしたキャラクター「中原中也」役(「汚れっちまった悲しみに」という名の能力を持つ)を演じている) 由于幼年家庭关爱的缺失(继父对自己的家庭暴力),以及亲眼目睹了母亲的自杀使小岬悲观的认为自己无人爱,无人需要自己,敏感的内心一再使自己受伤,寄宿在亲戚家里,虽然帮助阿姨从事传教活动… 1907年(明治40年)4月29日、山口県山口町吉敷郡下宇野令村(現山口県山口市湯田温泉)に、父謙助、母フクの長男として生まれる。生後6か月して旅順へ。以後、6か月を生地・山口で一時的に過ごしたほか、柳樹屯、広島、金沢と、父の赴任地に従って移り住んだ。小学校入学時に山口へ帰る。1914年(大正3年)下宇野令小学校入学。学芸会での朗読が参観者を驚かした。, 1915年1月、弟・亜郎の死を悼む詩を作った。1918年、県立山口中学受験のため、山口師範付属小学校へ転校。1920年4月、県立(旧制)山口中学に成績12番で入学。1学期末試験では80番に落ちた。「防長新聞」などへ短歌の投稿をはじめ、2年時、友人と歌集「末黒野」発行。露西亜詩人ベールイの破格語法を在学中に知った。文学熱高じて3年生を落第。京都の立命館中学に4年生として転入した。親元を離れた、波乱万丈の青春がはじまる。, 京都で暮らしはじめて文学熱はいよいよ高まり、16歳の1923年(大正12年)、高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」に共感。ダダ詩を書きはじめ、一時は「ダダさん」と仇名で呼ばれた。「大空詩人」と称されていた永井叔を知り、女優志願生・長谷川泰子を紹介される。1924年4月、中也が作ったダダ詩に好感を示した泰子と意気投合し同棲。東京外国語学校生で詩を書く富永太郎との交流をはじめ、ランボー、ベルレーヌらのフランス象徴詩に啓発される。東京行きを決意した。, 1925年(大正14年)、泰子と連れ立って上京、豊多摩郡戸塚町(現・新宿区西早稲田)に住む。早稲田高等学院、日本大学予科への進学を試みるが失敗。4月、富永の紹介で、東京帝大仏文科に入学したばかりの小林秀雄を知る。5月、杉並町高円寺に転居、小林の住む馬橋が至近。この頃、小林と泰子の恋愛関係が生まれた。11月、富永は肺結核で死亡、まもなく泰子は小林と杉並町天沼で同棲する。中也は中野へ転居した。1926年(大正15年・昭和元年)、19歳。4月、日本大学予科文科へ入学、9月、親に無断で退学。アテネ・フランセへ通う。この年、「朝の歌」「臨終」を書く。中也・泰子・小林の「奇怪な三角関係」(小林の発言)が続く。, 1927年(昭和2年)春、河上徹太郎を知り、10月には河上の紹介で音楽集団「スルヤ」のリーダー格・諸井三郎を知り、作曲を依頼する。1928年(昭和3年)、21歳。1月、内海誓一郎、3月、大岡昇平を知る。同月、父・謙助胃ガンを発病、見舞いのため5月までの間に2度、帰郷する。, 1929年(昭和4年)、22歳。1月、渋谷町神山(現・渋谷区神山)に転居、近くに大岡昇平、阿部六郎の家があった。4月、同人雑誌「白痴群」創刊。河上徹太郎、大岡昇平、安原喜弘、阿部六郎、内海誓一郎、富永次郎、古谷綱武、村井康男が参加。「白痴群」を牽引したのは中也と河上徹太郎であったが、河上はピアノをよくし、「スルヤ」のメンバーでもあるから、中也は「スルヤ」の集いにも参加するなど、東京での交友関係を広げた。「白痴群」は第4号までを、年内に発行。5月、北豊島郡長崎町(現・豊島区長崎町)に転居。7月、豊多摩郡中高井戸(現・杉並区松庵)に転居、近くに高田博厚のアトリエがあった。, 1930年(昭和5年)、23歳。1月「白痴群」第5号、4月第6号と旺盛に作品を発表したが、同誌は第6号で廃刊した。5月、「スルヤ」第5回発表会で、「帰郷」「失せし希望」「(内海誓一郎作曲)、「老いたるものをして」(諸井三郎作曲)初演。8月、豊多摩郡代々木山谷(現・渋谷区代々木)に転居。9月、中央大学予科に編入学。秋、吉田秀和を知り、フランス語を教える。12月、長谷川泰子、山川幸世の子を生む、中也が名づけ親になり、「茂樹」と命名した。, 1931年(昭和6年)、24歳。4月東京外語専修科仏語部(夜間)入学。高森文夫を知る。5月、青山二郎を知る。7月、豊多摩郡千駄ヶ谷町872(現・渋谷区代々木)に転居。9月18日、満州事変勃発。26日、弟・恰三死去、葬儀のため帰郷。12月、千駄ヶ谷町874へ転居。1932年(昭和7年)、25歳。3月、安原喜弘、山口訪問、長門峡などへ案内。5月、「山羊の歌」編集を開始。予約募集の通知を出すが、申し込みは10人余。8月、宮崎県の高森文夫を訪問。高森と延岡〜青島〜長崎を旅行。山口に帰り、金沢経由で帰京。荏原郡馬込町北千束(現・大田区北千束)へ転居。高森の伯母の家で、弟・惇夫が同居した。この頃、ノイローゼ状態になる。, 1933年(昭和8年)、26歳。1月頃、坂本睦子にプロポーズするが断られる。3月、東京外語専修科修了。4月、「山羊の歌」の出版を芝書店と交渉するが不調。以後、出版に至る翌年まで、江川書房、建設社、隆章閣との交渉を安原喜弘が行うがすべて不調。5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人雑誌「紀元」に参加。6月以降、同誌のほか「半仙戯」「四季」などに詩を発表。12月、遠縁の上野孝子と結婚。「ランボウ詩集(学校時代の詩)」を翻訳・刊行。四谷区花園町の花園アパートに住む。同アパートには青山二郎が住み、小林秀雄、大岡昇平らがよく訪れた。, 1934年(昭和9年)、27歳。7月、身重の孝子夫人と帰省。高森文夫を訪ねる。ランボーの翻訳に没頭。9月下旬、単身帰京。10月18日、長男文也誕生。11月、「山羊の歌」が文圃堂発行に決まる。草野心平を知る。太宰治を知る。12月初め、「山羊の歌」刷り上り、帰省、文也と初対面。ランボーの翻訳に専念する。1935年(昭和10年)、28歳。1月、小林秀雄が「文学界」編集責任者になり、中也の発表の場も広がる。3月末、単身上京。5月、逸見猶吉、高橋新吉、草野心平らと第一次「歴程」発刊。6月、牛込区市ヶ谷谷町(現・新宿区住吉町)に転居。12月、「四季」同人になる。, 1936年(昭和11年)、29歳。「文学界」「四季」「歴程」「改造」「文芸懇話会」「むらさき」「隼」などに詩・評論を次々に発表。6月、「六月の雨」が「文学界賞」の選外一席となる。秋、親戚の中原岩三郎の斡旋で放送局(現・NHK)入社の面接に臨んだが不調。11月10日、長男文也、小児結核で死去。悲しみの底で「文也の一生」「夏の夜の博覧会はかなしからずや」「冬の長門峡」を書く。15日、次男愛雅(よしまさ)出生。, 1937年(昭和12年)、30歳。1月、精神の変調に気づいた夫人の知らせで、母フク、弟思郎が元旦に上京。中也は事情を知らされないまま、千葉県の中村古峡療養所に2月中旬まで入院。退院後、神奈川県鎌倉町扇ケ谷(現・鎌倉市扇が谷)の寿福寺敷地内の住家に転居。近辺には小林秀雄、大岡昇平らが住んでいた。7月7日、盧溝橋事件起こる。この頃、帰郷を決意。9月15日、「ランボオ詩集」(野田書房)を発行。同月、「在りし日の歌」の原稿を清書し、小林秀雄に託す。10月4日、安原喜弘を訪問、頭痛と視力障害を訴える。同6日、鎌倉養生院に入院、22日、永眠。病名は結核性脳膜炎ということが現在、判明している。. 女 (続けて読む)「『労働の中でもあんな嫌なのはないね』と、散歩してゐる時友は私を促す様に言つた。――人間は退屈すると他人のことをみなくなる。」――ね、あたしのことも? 男 ははは、そんなに叮寧に訊かれちや、何にも言へなくなる。 女 さう? (読む)「湯 槽 ( ブネ ) の中� ポトホトと野の中 ... 底本の親本:「中原中也全集 第1 巻 詩 」角川書店 1967(昭和42)年10月20日印刷発行 初出:「山羊の歌」文圃堂 1934(昭和9)年12月10日 入力:浜野安紀子 1998年11月29日公開 2010年11月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文 …