本日のゲスト menon さんの チャンネルhttps://www.youtube.com/channel/UC5mgQoaP7qHtaVi6lGVxGdQ★2021年 新春 レコード 演談menon … 垣根でのベリーAやヴィニフェラ葡萄栽培、そして棚仕立てのデラウエアなどの生食用品種栽培、契約栽培葡萄から生まれる身体にしみるうま味を感じるワイン作りをめざしています。. 『イエロー・マジック・オーケストラ』 (yellow magic orchestra) は、ymoのデビューアルバム 。1978年 11月25日にアルファレコードからリリースされた。. 2)10月28日 ヤマハ池袋東店(シンセサイザー・スペース・ムーブメントVol. 電波少年』の音楽を作って欲しい!」というお願いも用意していたが、指名されることなく終了した。, 演奏されたのは「以心電信」「レスキュー」「War & Peace」「RYDEEN 79/07」の4曲。, この手法は高橋が自身のソロツアーで確立した手法であり、2007年のHASのライヴでも行われた。, 復旧するまでに時間を要することもあり、そのため海外では「曲が長い」という評価もあった。, 演奏はCD『Hosono Box 1969-2000』Disc 4(Re-Wind Recordings, 2000年)に収録, 1980年12月 FROM TOKYO TO TOKYO 武道館ライヴ・パンフレット ※カセットデンスケ、2台のローランドMC-8、モーグ・III-CとE-MU・システムシンセサイザーが配置されたシステム構成図が載っている。, YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR, EUYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON+GIJON 2008-, LONDONYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 15/6 08, GIJÓNYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN GIJÓN 19/6 08-, YELLOW MAGIC ORCHESTRA TECHNOPOLIS 2000-20 TOUR, Yellow Magic Orchestra | Biography & History, YMOによる時と場所を越えたセッションも!音楽と笑いの一夜「イエローマジックショー3」, E-MU SystemsとCreativeの新戦略 Creative Professional誕生, https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20170910/Entameplex_8325.html?_p=2, LONDONYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 15/6 08-, GIJONYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN GIJON 19/6 08-, Making of NON-STANDARD MUSIC/Making of MONAD MUSIC, The Best Instrumental Music Of Haruomi Hosono Calm, I'm Not In Love. ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー (2018年リマスタリング) - YELLOW MAGIC ORCHESTRA CD ¥2,956. See more ideas about orchestra, pop bands, yellow. Yellow Magic TRADE/イエローマジックトレード | 外車パーツ 輸入車部品(メルセデスベンツ BMW MINI フォルクスワーゲン アウディ ポルシェ ボルボ アルファロメオ フィアット プジョー). Yellow Magic TRADE/イエローマジックトレード | 外車パーツ 輸入車部品(メルセデスベンツ BMW MINI フォルクスワーゲン アウディ ポルシェ ボルボ アルファロメオ フィアット プジョー) 対象商品: イエロー・マジック・オーケストラ (2018年リマスタリング) - YELLOW MAGIC ORCHESTRA CD ¥2,870. CD ¥3,054. 「Sony Music Shop」は、CDやDVD・Blu-rayはもちろん、各種アーティストグッズや雑誌・書籍まで通販できるオンラインショップです。2,500円(税込)以上のお買い上げで送料無料。SonyMusic直営ショップです。 Yellow Magic Orchestra <1978-1979> 19781018 芝郵便貯金会館ホール Synthesizer Land FM東京 サウンドカーニバル 1CD. . The Best Of Yukihiro Takahashi 1988 - 1995, Turning The Pages Of Life ALFA Years 1981 - 1985, Turning The Pages Of Life EMI Years 1988 - 1996, Run After You Yukihiro Takahashi Live 1998, A Night in The Next Life-Perfect Premium Discs-, RED DIAMOND 〜Tribute to Yukihiro Takahashi〜, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=イエロー・マジック・オーケストラ_(アルバム)&oldid=82078690, 音楽本『コンパクトYMO』にてライターの佐藤公稔は、「日本語ロック論争からこっち、細野側に付いていたリスナーを始め、ミカ・バンドやクロス・オーヴァー・サウンドを期待していた各メンバーのファンを『とうとうディスコに走ったか』と落胆させてしまう作品であった。アルファ・村井社長の『こんなのやめようよ』の発言も商売人からすれば当然のこと」とリリース当初の境遇はかなり否定的であった事を指摘しているが、「バンドの要素が抑えられ、企画性の高いユニットとしての側面が強く出されている」、「当時のディスコ作品と比較するまでもなくハイ・クオリティに仕上がっているし、演奏、アレンジともに"さすがはアノ3人"と思わせる内容である」と音楽性に関しては肯定的であり、「方向性が定まっていないため非常に"軟派"に聴こえるが、日本ロック史においては"事件"と成り得るアルバムであることに変わりはない」と画期的であった点を肯定的に評価した, 音楽情報サイト『CDジャーナル』では、「テクニック重視のフュージョン・ブーム真っ只中の時代に、あえて機械に演奏させたのはやっぱり画期的, The Show vol.6 Yohji Yamamoto Collection Music. この機会にいろいろお願いしておきたい!」と題する企画で「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた[footnote 4]。松村はこの時に「メリークリスマス、ミスターローレンス」とビートたけしのものまねをメンバーの前で行っており、「似ているね」と言われて嬉しかったと番組内で語っている。, 5月26日、アルバム『テクノドン』を東芝EMIから発売。ミキシングには坂本がニューヨークで知り合ったマドンナ等との仕事で知られた日本人エンジニアGOH HOTODAが参加、後述の再生公演にも4人目のメンバーとして出演した。先行シングルはエルヴィス・プレスリーのカヴァー曲「ポケットが虹でいっぱい」。6月10、11日には、東京ドームにて公演が行われた。前座はジ・オーブが務めた。このライヴでは過去の曲も数曲、斬新なアレンジが施されて演奏されたものの、昔のヒットパレードに終始することは全くなく、あくまで『テクノドン』からの曲を中心に構成された。8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『テクノドン・ライヴ』が発売。以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。再生時の記者会見ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作したいと発言していたが、結局YMOとしてそれらの活動が行われることはなかった(後年インタビューにて、「再生」はメンバー自身の本意ではなかったと3人とも口を揃えて語っている[11])。, しかし、細野・高橋・坂本の3人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。, 2001年1月23日、NHK-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番『細野晴臣 イエローマジックショー』にて3人が共演。3人が老人に扮して丹前(どてら)を着て演奏するというユーモラスな趣向で、同期なし、シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏した。この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。, 同年 4月25日、TBSによる地雷撲滅キャンペーン「地雷ZERO」の一環として、坂本を中心としたスペシャルグループ「N.M.L. 5つ星のうち3.6 8. 37人がチェックインしました - 土・日・祝は9:00-17:00までの営業となります。 また、夏季休暇・年末年始など不定休がございますのでご注意ください。 5つ星のうち4.7 22. イエロー・マジック・オーケストラ (英: Yellow Magic Orchestra) は、日本の音楽グループ。1978年に結成。通称、YMO(ワイ・エム・オー)。, 上記の担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、テレビ番組ではこれら以外のパートを担当することもあった。坂本龍一は、ライブでドラムスを披露する曲もある。YMOは、元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていた[2]が、ライヴなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は最初から現在までこの三人である。, Yellow Magic Orchestra(イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が1970年代後半に提唱していたコンセプト「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも、黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)でも、そのどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱した「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。, 1980年代初頭に巻き起こったテクノ / ニュー・ウェイヴのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(=解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、およびコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再々結成している。, 当時、シンセサイザーを駆使した音楽としては、すでにドイツのタンジェリン・ドリームやイギリスのエマーソン・レイク・アンド・パーマー、日本の冨田勲などが有名であり、1978年のディーヴォの「頽廃的美学論」やクラフトワークの「人間解体」にも、電子楽器の導入は明らかであった。よって、YMOはその路線に東洋趣味をそれと分かる形で歌詞・アレンジ・コンポジションの全てに入れ、プロモーションから黄色人種経由であることを主張し、バラエティ番組やコント番組などにも多く出演し積極的に露出を増やしていき、認知度を高めた。, クラシック、レゲエ等様々な音楽性を柔軟に取り入れている反面、ポストパンク的なシンプルさや攻撃性とは無縁である。このためテクノ御三家の一角としてムーブメントを支えたP-MODELの平沢進は後年「あれはフュージョンだと思っていた」と、自分たちの音楽性とは乖離があった旨を述べている。, YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が中国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」(本多三記夫考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげなし)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。, ライブにおいてヴォコーダーヴォイスで挨拶することでも有名。いくつかのライブ盤でそのヴォコーダーヴォイスによる挨拶を聞くことができる。, YMO結成以前、細野は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に自身の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーするというユニットを構想していた。だがこれは実現せず(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーしている)、続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニーの「ファイアークラッカー」をカヴァーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。細野は当時のマネージャー(日笠雅水)にも人選を依頼し、日笠は坂本龍一を推薦した[3]。, 1978年2月19日に行われた細野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、高橋幸宏の2人と、初めて3人で顔を合わせることとなった。, それまでにも坂本と細野は1975年、大滝詠一のアルバム「NIAGARA MOON」の録音時に顔合わせをしており、1976年には細野がティン・パン・アレーのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。1976年5月、細野のアルバム『泰安洋行』発売時のライブでは坂本とともに「ファイアークラッカー」を演奏している[4]。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック・ミカ・バンドが1975年の「ジャパン・ロック・フェスティヴァル」に出演した際、小原礼の代役で細野が演奏したことが一度あっただけだった[5]。, その日細野が2人を自宅に招き、3人はこたつを囲んだ状態で、おにぎりを食べながら(みかんという説もあるが、みかんはあったと三人は記憶している)会合を行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、ここで初めて“YMO”が結成される。このとき細野は2人に「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」(実際のメモには枚数は書かれていない)という自身のメモが書かれたノートを見せている。, 細野はメンバーが決まった後も、結成当初は横尾忠則をYMOのメンバーに加える構想があった。記者会見の当日、細野は横尾に対し会見に来るように伝えていたが、横尾はなぜか「行きたくなかった」とキャンセルした(真相は、会見当日が締め切りとなっていた仕事に専念するため)。黎明期YMOのトレードマークである“タキシード”も横尾の分含め4着用意されていたが、結局、横尾がメンバーに加わることはなかった。, 後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることになる。, 1978年9月、松武秀樹をサポート・メンバーとしてライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。, 1978年10月18日、郵便貯金ホールにおいてライヴを開催[6]。さらに10月25日から26日にかけ六本木ピットインにおいて「千のナイフ発売記念ライヴ」を開催[6]。, YMO結成後もしばらくは、メンバーは並行する形で別の音楽活動を行っていた。坂本は渡辺香津美とのツインバンド「KYLYN」、坂本のベーシスト2人、ドラマー2人など各パート2人体制により格闘技形式で演奏を行うコンセプト「カクトウギ・セッション」がそれである(これらには高橋、矢野顕子も参加)。また高橋は1979年6月までサディスティックスに在籍していた。初期には東京、六本木のジャズ・フュージョン系ライブハウス「六本木ピット・イン」などでYMO名義以外でも矢野顕子のライヴにゲスト出演を行ったり、KYLYN、カクトウギ・セッションなどに3人が参加し、YMOの曲も演奏していた。坂本の「千のナイフ発売記念ライヴ」にも3人が参加している。, 1978年11月25日、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売[6]。アルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、12月3 - 10日に紀伊國屋ホールで行われたライヴが来日していた副社長のトミー・リピューマの目に留まり、全米でデビューが決定したと語られてきたが、後に『ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978』(12月10日分収録)のライナーノーツの中で、全米デビューはそれより前に決まっていたと明かされている。, 1979年5月30日、デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスしたアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードから発売。リミックスは、エンジニアのアル・シュミットと細野が共同で行った[2]。この米国盤は7月25日に日本でも発売された(日本ではオリコン・チャート最高20位)。日本盤との大きな違いとして、坂本のインスト曲「東風」が「Yellow Magic (Tong Poo)」にタイトル変更され、吉田美奈子のヴォーカルが加えられている。同時に、YMOを全世界に向けて売り出すプロジェクト「イエローオペレーション」が開始された[7]。1979年8月2 - 4日には、ロサンゼルスのグリーク・シアター(英語版)でチューブス(英語版)の前座公演を行い(海外での初公演)、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。8月6日にはマダム・ウォンにて単独ライヴも行い、この頃から徐々にその存在が注目され始める。, 同年9月25日、2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発売[8](この時期、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。オリコン・チャートの最高1位にランクインし、日本国内でのセールスはトータルで100万枚を越え、その名を幅広い世代に浸透させることとなった。同アルバム収録の「テクノポリス」「ライディーン」は、YMOのパブリック・イメージとなる。また「デイ・トリッパー」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の2曲は海外でも評価が高く、名声を得た。なお、この2曲のみ鮎川誠(シーナ&ザ・ロケッツ)がゲスト・ギタリストで参加している。10月には初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー (YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR)」をイギリス・ロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビ、ラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売ることなく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。12月には帰国し、中野サンプラザにてライブを行った。凱旋公演となったライブでは、シーナ&ザ・ロケッツがオープニング・アクトを務めた。帰国する頃には日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に逆輸入された形となった。海外でのライブツアーは、その日本人アーティストのほとんどが国内でヒットを出し、人気者になってから行うが、YMOは国内でヒットする前に行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と予見してのことだった。, こうしてYMOの日本国内での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、当時の小学生にまで広がっていった。若者がテクノカットをまね、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど、YMOの影響は社会現象にまでなった。1980年3月からは初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」が行われる。4月には、小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツやスネークマンショーらと共に出演。同年6月には、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』を発表。これは当初10万枚の限定盤として売り出される予定であったが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。同年10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8か国、19公演で行われ、アメリカ・ロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられた。, YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ、「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(1993年「再生」時の坂本の発言より)。「欧米で広く受け入れられた画期的なジャパニーズ・ユニット」という評価であるかどうかは、評論家および聴衆の間でも反応は様々である。, 1981年はYMOにとって大きな転換期となる。3月に前衛的ともいえるアルバム『BGM』を発表。当時、開発されたばかりであったデジタルのMTR(マルチトラック・レコーダー)を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまで耳に馴染みの良いポップ指向のスタイルから一転、“暗く重い”ヨーロッパ志向かつ、ニュー・ウェーヴ色の強いエレクトリックサウンドを展開した。歌詞もそれまでのクリス・モズデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であると坂本龍一は語っており、また「U・T」が後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、国内だけでなく世界にも影響を与えたアルバムである。, 音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家などから非常に高い評価を得ている。しかしその一方で、いわゆる「ライディーン」的なサウンドを期待していたファンからは大顰蹙を買い、「失敗作」、「駄作」などと酷評され、セールス面では大きく落ち込んでしまう結果となった。このアルバムの発表に対し、メンバーは「何をやっても売れちゃう。こんな面白い状況は二度と来ない。だったら遊んじゃおうと思った」(細野)、「期待をはぐらかす快感を味わいたかった」(坂本)、「ファンの切り捨てをしました」(高橋)と、それぞれ発言している。, 同年11月には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『テクノデリック』を発表。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。, 同年リリースされた上記の2枚のアルバムの発表に続いて、2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が11月24日から仙台・宮城県民会館よりスタート。全国11会場で行われる。主に『BGM』 『テクノデリック』からの楽曲を中心に演奏されたこのツアーでは、楽曲の再現性に問題があったため、YMOのライヴとしては初めてMTRが使用された。演奏スタイルもそれまでのライヴとは、変化が見られる。高橋のドラムスタイルは、従来のドラムセットに加え、スタンディングでサンプリング・トリガーのLMD-649を叩くものが取り入れられた。楽曲によっては坂本がギターやドラムスを、高橋がキーボードを演奏するなど、YMOのライヴとしては非常に珍しいともいえる楽器のパート変更などが見られた。また、細野がベースギターを演奏する比重が増えるなど、変化に富んでいた。ステージのサポートメンバーも松武秀樹一人のみで構成されたライヴであった。12月27日の新宿ツバキハウス公演(この日の公演のみ立花ハジメ、梅林茂もサポートメンバーとして参加、「中国女」も演奏)を最後に、翌年はYMOとしての音楽活動は一旦休止状態となる。, グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ・エム・オー)という記号化された略称が一般に定着した[footnote 1]。散開後は、登録商標の問題でこの「YMO」表記が一時的にできなくなり、「イエロー・マジック・オーケストラ」(Yellow Magic Orchestra) 表記が主流である。, この時期、坂本は雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が“細野晴臣”というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」[9]と語っており、坂本と細野の間で対立じみた不協和音が発生していた。この時期の坂本と細野の関係はかなり険悪な状態で、坂本は細野とスタジオで顔を合わせると、腹いせにスタジオの椅子を蹴飛ばしたり、互いに顔を合わせないようにわざとスタジオ入りの時間をずらしていたという。そんなこともあってか、2人の仲を取り持っていた高橋はとても神経をすり減らしていたそうである。, メンバー間では、1981年末でYMOの活動にピリオドを打つ(解散する)という考えがあったようである。しかしながら、(当時所属していたレコード会社だった)アルファレコードの意向によるビジネス面での要求から、解散はひとまず先延ばしにされた。, 1981年までのYMOのレコードの世界での売上はシングルがアメリカで100万枚[7]、イギリスで20万枚[7]、アルバムはアメリカとイギリスを合わせて20万枚[7]、全世界でのレコード売上は500万枚[7]に達した(アルファレコード社長(当時)の村井邦彦による[7])。, 翌年、1982年はYMOとしての実質的な音楽活動は行われなかった[footnote 2]。各メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。, 細野ははっぴいえんど時代の盟友松本隆と共に松田聖子への楽曲提供を行い、また高橋と共に「¥EN」(YEN) レーベルを設立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。坂本は郷ひろみや前川清などの楽曲プロデュース、また、忌野清志郎と共にシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリース、そして、大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の撮影に俳優(ヨノイ大尉役)として参加、また、自身としては初となる映画音楽を手がけることになる。高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月から行う。, YMOとしては「ミュージックフェア」や「オレたちひょうきん族」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」の名で出演し、“元YMOの”と前置きしつつ、芸を披露している[10]。細野は“林家三平”“柳家金語楼”“大河内傳次郎”、坂本は“忌野清志郎”“矢沢永吉”、高橋は“小野田寛郎”“草刈正雄”などのものまねを披露し、ラストは坂本が高橋、高橋が細野、細野が坂本のものまねをして終えた。, 翌年、1983年3月、カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン。」で、YMOとしての音楽活動を再開。この曲以降、1981年の前衛的なサウンド『BGM』 『テクノデリック』から一転、今度はポピュラー志向の日本語テクノ歌謡を展開した。この曲で“オリコン・チャート1位を狙う”と宣言するも、皮肉にも細野の作曲 / 編曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれ、惜しくも2位に終わる(しかしYMOのシングルとしては最大の売上枚数を記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム『浮気なぼくら』を発表。またしても、それまでのイメージを劇的に変化させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは、既存の歌謡曲の枠を超えた緻密なサウンドで構成された先鋭的な作品であった。しかしながら、このアルバムが「解散」を前提に制作されていたアルバムとは、この時点でメンバー以外はまだ誰も知らない。, また、同年7月には『浮気なぼくら』の楽曲のヴォーカル部分をシンセのメロディーに置き換えたリミックス盤『浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表され、このアルバムに収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。, この時期はメンバー3人の年齢が30代を過ぎていたこともあり、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「おじさんアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらの振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。, 当時、高橋が担当の「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアター (S.E.T.)